坂の上の雲その後 最後の使命は郷里での教育 秋山好古㊦
「サネユキキトク」の電報が福島・白河に出張していた秋山好古(よしふる)(1859~1930年)に届く。北予中学校(現愛媛県立松山北高)の校長に就任する6年前の大正7(1918)年2月3日。好古は陛下の軍事顧問を務める軍事参議官だった。
周囲が帰京を勧めるが、「すでに弟とは今生の別れのあいさつをしておる」とそっけなく、「イカヌヨロシクタノム」と返電させる。4日早朝には「サネユキセイキョ」の至急電が配達されても「官命を帯びての任務遂行中であり、肉親の死であろうと、私事で帰京はできぬ」と言い放ち、何事もなかったかのように公務を続ける。見かねた部下が陸軍省人事局長と掛け合い、任務交代の陸軍大臣命令が出される。渋々、帰京した好古は、7日の葬儀で葬儀委員長として、あいさつをした。
1分1秒たりとも国を思わぬときはなかった
「兄として、弟を誇れるものは何もありませんが、これだけはお伝えしておきたい。真之は一分一秒たりとも国を思わぬときはなかったと」。参列者のだれもが好古にも感じるものであった。
「前途のため郷里から有能な人物が出るように国のため郷里のために尽くす」。好古最後の使命は教育だった。当分の間という約束だったが、人柄が生徒や教員に浸透するにつれ、人気も高まり入学希望者は3倍に増加、辞任は先送りされる。しかし、その間も糖尿病は悪化、どうにも体がいうことをきかず、昭和5年3月に辞職。同じ年の11月4日、71年の生涯を閉じる。
無言の教訓、無為の感化は誠に大きい
6年間一日も休まず登校し、生徒を見守る姿は街中に知れ渡り、時計よりも正確といわれた時間厳守の姿勢はルーズだった街の人々の意識さえ変える。「無言の教訓、無為の感化は誠に大きいと言はねばならぬ」と北予中理事の井上要は書き残す。
松山でも墓参したいという声に押され、有志の手で道後鷺谷墓地に分墓を建立する。碑には「永仰遺光(えいごういこう)」。永遠に尊敬し、その人徳の光を未来に伝えるという意味だ。最後の使命を全うした好古に対する郷里の感謝の思いが4文字に詰まっている。