沖縄戦終結後 宮古島から赤トンボで特攻 三村弘上飛曹 第三龍虎隊①

沖縄戦が終結した昭和20年7月29日に赤トンボと呼ばれた練習機で出撃した三村弘上飛曹が戦死する前、遺書と日記が残っている。

海軍上飛曹 三村弘 昭和二十年七月二十九日、沖縄・宮古島を出撃し、沖縄周辺にて戦死 岡山 予備練習生十四期 神風特別攻撃隊第三龍虎隊 二十歳

赤トンボと呼ばれた「九三式陸中練」

まだ生きて居りました 母への遺書

遺書

 母上へ

 まだ生きて居りました。

 もう家では、死んだと思って居られるかもしれない そうすると あきらめて居られるのに 又 手紙等出して 御心配をかけるよりもいっそ出さない方がよいかも知れないなどと思って見ましたが(以上の事は、あまり本気で読まないで下さい)それでも不幸な様な気がするので よい便があったのを 幸い書いています。

母への遺書

 何時か一週間に 一度は 便りを出すと約束したことを思い起こし、あんな高言を言わねばよかった、と後悔しています、出さなかった訳もあり出せなかった理由もあります。言わなくてもお察しして頂けることと思います。

 六月二十日と言えば田植えの時期だったと思います。お忙しいことでしょう。お祖母さんをはじめ皆元気にてお暮らしのことと思います。

三村弘上飛曹

 玲子も清子も元気ですか。朗らかな娘に育ててやって下さい。椙子も目出度く三年に進級したら奉仕作業に行っていることでしょう。今は此処に居ますがどこに行くか解りません。 暖かい微風がそよ〱と吹いて大きな芭蕉の葉が揺れています。親類にも近所にもご無沙汰ですからお会いになったらよろしく

 呉〲もお体を大切に悟兄さんは如何ですか。

 しっかり養生して元通り御健康なお体になれる様弘が言ったとお伝えください。

 台湾○○基地にて

妹達をよろしく 父への遺書

母への遺書
母への遺書
母への遺書 特定できないように基地名が伏せ字になっている

 父上へ

 天佑神助上あり。

 七度生まれ変わりて滅敵を期す。

 祖母様御両親様の御健康を希ふや切なり。

 兄上の御快癒一日も早からんことを。

 妹達をよろしく。

父への遺書

 「敵巡洋艦に體當り」「我精鋭の體當り 空母等二隻撃沈」と連日のように特攻隊の記事が紙面を飾る日々、海軍航空隊の操縦員として戦地に赴いた息子をどれほど気にかけているか知っているはずである。それでも「まだ生きて居りました」と手紙に書くように、母の切実な思いに少しはにかむような少年の雰囲気が残っている。

 遺書は予備練習生の同期である庭月野英樹氏(宮崎市在住)が台湾の虎尾基地から木更津基地に転属する際、投函を依頼されたものだった。

機材繰りも逼迫 練習機を再塗装、特攻機に

 昭和二十年六月二十三日の沖縄地上戦終結後も特攻は散発的に行われる。第三龍虎隊の隊長を務めた三上上飛曹が乗った航空機は九三式中間操縦機だった。

 「九三式陸中練」と呼ばれる同機は昭和九年から練習機として使用され、鋼管フレームで胴体は木製、翼は布張りの複葉機で、識別しやすいように機体をオレンジに塗っていたことから「赤トンボ」と呼ばれ、国民に親しまれていた。およそ現役戦闘機と思えない練習機を暗緑色に再塗装し、特攻機として使用するほど機材繰りも逼迫していた。

 硫黄島に米軍が上陸し、日に日に敗色濃厚となる中、本土決戦に備える陸海軍大本営は三月一日に将来にわたるパイロット育成を放棄、全軍特攻を決定する。海軍は練習航空隊を解隊、全練習機を特攻部隊に配備。機上作業練習機「白菊」や水上偵察機とともに約六百機の「赤トンボ」も夜間特攻訓練に投入された。

 操縦員も不足し、「赤トンボ」を駆り敵艦に向かった操縦員は大半が経験が少ない予科練生で、航空機乗員養成所出身の三上上飛曹(予備練十四期)が第三龍虎隊の隊長を務めた。

 海軍の場合、パイロットになるには八つのコースがあった。海軍兵学校出身の士官パイロットを養成する「飛行学生」、大学学部や大学予科、専門学校卒業者の「飛行科予備学生」で大戦末期には在校生も大量に採用した。下士官兵から優秀な者を部内選抜する「操縦練習生(操練)」。少年飛行兵制度である「予科練」には三つの養成コースがあった。昭和十二年に発足の中学四年程度の学力のある者が受験した「甲種飛行予科練習生(甲飛)」、昭和五年に始まった高等小学校卒業程度の学力のある者のなかから優秀な者を選抜した「乙種飛行予科練習生(乙飛)」、昭和十六年に始まった「操練」の流れをくむ下士官のなかから部内選抜した「丙種飛行予科練習生(丙飛)」で、これにより操練は廃止される。

 少年兵ともいえる「乙飛」のうち、年長者を選んで採用した「乙種(特)飛行予科練習生(特乙)」は昭和十七年十二月に発足する。

 最後が「予備練習生(予備練)」である。「予科練」と混同されやすいが、元々は陸軍主導で始まった。

 予備練と呼ばれる逓信省航空局所管航空機乗員養成所は昭和十三年に陸軍主導で仙台と鳥取県米子に設立されたパイロットの専門養成所。昭和十六年以前はいったん陸軍に配属後、大日本航空、満州航空などの航空会社や三菱や川西などの航空機製造会社にパイロットとして就職した。平時は民間パイロットとして勤務し、戦時には前線でパイロットをサポートする形だった。

 陸軍委託の国立操縦士養成学校ともいえる養成所の受験資格は旧制中学卒業程度の学力と体力で衣食住を支給され、月給をもらいながら憧れのパイロットになれるため、数十倍の難関であった。兵力の半数は予備役でまかなう思想の陸軍に対し、現役重視だった海軍は予科練で専門パイロットを育成する制度を採用していた。しかし、パイロットの補充に迫られた海軍は昭和十七年、愛媛に初の乗員養成所を開設した。

 大戦末期を除き本来の予科練は一年以上、専門学科や陸上教練などを受けてから操縦訓練に入ったのに対し、養成所では三カ月間だけ徒手教練や手旗、無線などパイロットとしての基礎教育を受け、すぐさま飛行訓練を行う。海軍系にもかかわらず、水泳やカッター、小銃訓練などを省く、パイロット促成養成機関だった。しかし、予科練の制服が有名な七つボタンだが、パイロットにもかかわらず予備練はジョンベラといわれる襟が付いた水兵服を採用していた。

 教官が後席、練習生は前席という二人乗り複葉機「三式初級練習機」課程三十時間を経て、単独で「九三式陸中練」課程を七十時間で修了する。パイロット不足が深刻化した昭和十八年から入所者が急増、終戦までに七千五百七十名が入所し、昭和十九年に卒業した十四期が最後の卒業となる。

 大津海軍航空隊飛行科甲種予備練習生の三上上飛曹もその一人だった。

 十九年四月から第九五一海軍航空隊石垣島派遣隊で潜水艦攻撃や船団護衛の任務の後、空襲で航空機を焼失したため、二十年四月二十九日台湾の新竹基地に仮入隊、五月十八日、虎尾基地に移り、特攻隊である龍虎隊を編成し、夜間訓練が始まった。菊水作戦ですでに多くの若者が沖縄周辺の海に散華している。

宮古島にある慰霊碑

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