世界初の人工がん発生に成功 山極勝三郎(上)
昭和41(1966)年10月、羽田空港。スウェーデンからの日航機で一人の老紳士が降り立った。元ノーベル賞選考委員で王立カロリンスカ研究所のフォルケ・ヘンシェン名誉教授は、待ち構えた新聞記者に対しこう言った。 「世界の […]
大久保利通の「而盡」削る豪胆さ 小花作助㊦
小笠原・父島中心部から5㌔ほどの小笠原神社参道わきに「開拓小笠原島之碑」がある。 当時の内務卿、大久保利通が撰文、日下部東作が書を、石工は広群鶴で、明治10年に建立された。風雨にさらされ読みにくい箇所はあるが、明らか […]
小笠原を日本に奪い返した官吏 小花作助㊤
東京の南南東約1千㌔の小笠原諸島は父島や母島、硫黄島の島から成り立っている。この島々を外国人から取り戻した男こそが小花作助(1829~1901年)だ。 江戸時代の1670年、八丈島経由で生還したみかん船の乗組員が幕府 […]
初の国産旅客機 YS-11設計者 木村秀政 ④
夢をのせ「あすも翔ぶ」 航空日本復活の威信をかけて設計された「YS-11」。機体は故障もなく操縦もしやすい。しかし、商業的には失敗した。「技術者の良心」だけでは売れなかった。 航空機産業は世界中で激しい売り込み工 […]
初の国産旅客機YS-11設計者 木村秀政③
5人のサムライの激論 日本初の国産旅客機「YS-11」の開発に取り組んだ東大航空学科の同期、木村秀政と堀越二郎。 木村は堀越を「飛行機を設計する場合、ひとつの点だけを徹底追求すると非常に特徴のある飛行機ができる。 […]
初の国産旅客機 YS-11設計者・木村秀政 2
GHQから禁止された「空白の7年」 連合国軍総司令部(GHQ)は航空日本の復活を恐れていた。昭和二十年十一月十八日、航空機の生産、研究、実験のすべての活動を禁止した。東大航空研究所も解散を命じられた。 木村秀政は […]
初の国産旅客機 YS-11設計者 木村秀政①
見渡す限りの航空機の群れ。着陸体勢に入った五機が進入ルートに沿って一直線に見える。二分に一回、一日約八百便が発着する羽田空港。平成十三年六月三十日、ボーイング、エアバスなどの欧米機に交じって大島路線を飛んでいた唯一の国 […]
第六潜水艇 佐久間勉艇長の遺言㊦ 夏目漱石、与謝野晶子も讃辞
第六潜水艇の艇長、佐久間勉大尉(1879~1910年)が息絶え絶えになりながらも残した「佐久間艇長の遺言」は殉職した5日後、明治43年4月20日の新聞各紙で公表される。 「死に至るまで職務忠實なる行動に、胸迫り涙さへ […]
第六潜水艇 佐久間勉艇長の遺言㊥
明治43(1910)年4月15日、山口県新湊沖で訓練中に遭難した「第六潜水艇」の佐久間勉艇長以下全員が配置に就いたまま殉職していたという報は引き揚げ翌日の新聞に掲載され、日本中が14名の「海軍魂」に感動の渦に包まれる。 […]
第六潜水艇 佐久間勉大尉の遺言 ㊤
明治43(1910)年4月15日午前9時38分、瀬戸内の山口県新湊沖。「ベント開け」の佐久間勉艇長の号令とともに、前日に続き海軍「第六潜水艇」は艇を水中に沈め、通風筒の先を水面に出して航行する半潜航訓練に入った。 […]