天皇陛下へ 天皇の血筋を守れ 皇統護持作戦従事 紫電改 大村哲哉元大尉

海軍の人間爆弾「桜花」、高速偵察機「彩雲」、局地戦闘機「紫電改」の搭乗員三名は大正末に生まれた。憧れの航空兵として死線をくぐり、特攻隊に選ばれる生と死が向き合った人生。昭和、平成と生き抜いた三人の目に映る天皇陛下のお姿はどう変わっていったのだろうか。平成から令和の御代替わりの頃、話しを聞いた。

 海軍三四三航空隊の紫電改搭乗員だった大村哲哉元大尉=取材当時(九五)=兵庫県揖保郡太子町在住=は長崎大村基地で終戦を迎える。

軍令部航空作戦主務参謀だった源田実大佐は強力な戦闘機部隊の必要性を唱え、坂井三郎少尉ら熟練の搭乗員を一本釣りし編成されたのが精鋭戦部隊「三四三空」だった。零戦をしのぐ操縦性を持つ局地戦闘機「紫電改」も優先的に集中配備し、本土決戦における最後の空の砦だった。

 その日、総員一千名が基地指揮所前に整列し、ラジオに耳を傾ける。分隊長の大村は隊員と向かい合う形で指揮台横に並ぶ。玉音放送の後、源田が訓示した。

「我が三四三空は断じて降伏しない。最後の一兵まで戦う所存である」

我が三四三空は断じて降伏しない

現存する唯一の紫電改=愛媛県愛南町の紫電改展示館
担当者の方が搭乗員服で迎えてくれた

 その言葉を大村も当たり前のこと受け止めた。「海軍兵学校を出た職業軍人ですからね。招集された将兵とは違い、我々にも負けた責任がある。当然ですよ」

 天皇陛下が中国に流刑され、皇族は死刑になるー基地内を流言はまことしやかに広がっていった。

 第一線に配属される前の昭和十八年十一月十八日、少尉候補生を修了した大村ら海兵七十二期六百二十五名は海軍機関学校五十三期、海軍経理学校三十三期とともに宮城「西溜の間」で天皇陛下に拝謁した。

「入御」の合図で最敬礼すると、海軍軍装の陛下のお姿があった。おまえたち頼んだぞと、軽くうなずくような会釈をされた。

「出御」の合図で最敬礼し、頭を上げると壇上には誰の姿もなかった。

「緊張していたのか。お姿も薄ボンヤリしてはっきりと思い出せません。いまでも夢のような思いです」

 しかし、陛下に拝謁したことで国の干城としての意識は高まった。何よりも日本人に生まれてよかったと心の奥底から感激する。「どうしてでしょう、日本人だからとしか言えませんね」

 

終戦直後、自決するため健民道場に集まった有志に対し、盃を交わしいざ自決という時、司令の源田が言った。

「試すような形になり申し訳ないが、命も名誉もいらぬ沈勇の同志がほしかった」

 天皇陛下や皇族方の万一に備え、平家の落人が住んだ山里に幼い宮様を匿い養育する「皇統護持作戦」が二十四名に下令された。

米内光政海軍大臣らの了承を得た上で、海軍軍令部が直接指示し、現在でいえば五千万相当の機密費二十万円も用意された。

「もともと死ぬ気で道場に行きましたので、どんな任務でも受けますよ。あまりにも壮大な作戦で当初は半信半疑でしたが…」

天皇家の若君を隠す 宮崎米良荘に行在所

宮崎米良荘に残る行在所跡の碑

 昭和二十年十一月初旬、大村は同志三名とともに、行在所が設営される宮崎米良荘に乗り込んだ。九州山地奥にある椎葉や五家荘とともに平家落人伝説の村である。

表向きは戦争に敗れ職がない職業軍人が入植したことになっていたが、天皇家の血を絶やさぬ他言無用の極秘任務だった。

 宮様を迎え入れるため、行在所建設や畑作りに追われていた大村も天皇陛下の人間宣言の報に接する。「時代が急速に変わってきたのを実感しました。しかしまだ天皇制自体が変貌する可能性も残されており、共産党の活動も活発だったので、早く行在所を完成させなければと焦りました」

郷里にて自活して待機せよ

愛媛県久万高原町大成神社に移設された行在所

 昭和二十一年三月六日、「憲法改正草案要綱」が発表され、「天皇は日本国民至高の総意に基づき日本国の象徴及び日本国民統合の標章」と天皇制維持が明確に示された。天皇や皇族を取り巻く情勢は好転しつつあり、大村以外の三名には自宅待機の命令が出る。

 昭和二十二年五月三日、日本国憲法が施行される。五月十五日、米良荘でただ一人、宮様を待つ大村に新たな指令が下された。

――郷里にて自活して待機せよ。後は追って指示する。

 兵庫の両親の元に復員。自決したと思っていた母親は玄関先でうれし涙にくれた。天皇制の維持が決まったことで長かった大村の戦争はようやく終わりを告げる。

行在所侍従室に掲げられた二十四名の連判状。中ほどに大村哲哉の名がある

  昭和天皇の「たづねて果さむつとめ」のお気持ちを継承し、今上天皇は平成六年に硫黄島、十七年にサイパンをご訪問された。

 今上天皇が御製を詠まれる。

あまたなる命の失せし崖の下海深くして青く澄みたり

皇后陛下も御歌を詠まれた。 いまはとて島果ての崖踏みけりしをみなの足裏思へばかなし

 戦時中、ネイビースピリット、海軍魂とは国に尽くすことだった。戦いが終わっても、家族のために懸命に働き国尽くす海軍魂は変らなかった。

「各自自活自戦」の通達が各隊員に行き届き、皇統護持作戦は極秘のまま、正式に解散された昭和五十六年一月七日だった。終戦の年から三十六年ぶりの作戦終了だった。それ以後も大村は家族にも話したことはなかった。

「他言無用の作戦ですからね。口にしたことはありません。当たり前のことです」

復員後、関西配電(現関西電力)に入社した大村は生真面目に働き、定年まで勤めあげる。

万一に備えた忍者屋敷のような若君の隠し部屋
隠し部屋に続く階段。常時は収納され、階段や部屋があることは分からない

天皇がおられない日本はすでに日本ではない

「天皇がおられない日本はすでに日本ではない。それは形も色も何もないアメーバーのような国になってしまいます。だから日本国復興のためには天皇制維持は必要だった。でもよかったですよ、作戦が実際に発令されずに本当によかった」

 最後に靖国神社ご参拝について尋ねた。大村も「参拝されると、一つの区切りとなると思います」と言葉少なに語った。

作戦が実際に発令されずに本当によかった

  

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