天皇陛下へ  人間爆弾「桜花」 佐伯正明元上飛曹 生き残り海軍将兵の思い㊤ 

遠くに浮かぶ緑の島陰に向かい、黙礼をされる後ろ姿が心に焼き付けられている。それは戦い力尽きた将兵を慰霊する祈る天皇皇后両陛下のお姿であった。

ズボンに両手を添え、凜とした天皇陛下と深い慈愛があふれられている皇后陛下。パラオ行幸啓二日目の平成二十七(二〇一五)年四月九日。中川州男大佐率いる守備隊約一万名が玉砕したペリリュー島南端の「西太平洋戦没者の碑」に白菊の花を供え、拝礼された。

続いて海の向こうの約一千二百名が玉砕したアンガウル島に向かい、頭を下げられる。皇后陛下が御歌を詠まれた。

逝きし人の御霊かと見つむパラオなる海上を飛ぶ白きアジサシ

ヘリコプターでペリリュー島に向かわれる途中、以前サイパン島のスーサイドクリフでご覧になったのと同じ白いアジサシが飛ぶ様子を、亡くなった人々の御霊に接するようだとお感じになりお詠みになった。

両陛下の後ろ姿にだれよりも感銘を受けたのが特攻で多くの戦友を失いながらも生き残った元搭乗員だった。

遺体を見ることもない 完結しない戦死

龍巻部隊の救命胴衣を持つ佐伯正明氏=愛媛県西条市で撮影

先の大戦を経験した元陸海将兵に取材を続けていると、それぞれに違いを感じる。その一つが搭乗員の淡々とした死生観である。朝、同じ飯を食べていた戦友が夕食には姿が見えない。ああ戦死したのか。遺体を見ることも、戦死の場面に遭遇することも少ない。帰還しないので死は事実だろうが、どこか完結しない死。だからこそ追慕する思いが消えない。「こんなにありがたいことはありません」「遺族の方もお喜びになったと思います」。両陛下への感謝の言葉があふれた。

人間爆弾「桜花」、高速偵察機「彩雲」、局地戦闘機「紫電改」の3人 

海軍の人間爆弾「桜花」、高速偵察機「彩雲」、局地戦闘機「紫電改」の搭乗員三名は大正末に生まれた。憧れの航空兵として死線をくぐり、特攻隊に選ばれる生と死が向き合った人生。昭和、平成と生き抜いた三人の目に映る天皇陛下のお姿はどう変わっていったのだろうか。平成最後の三十一年直前、御代がわりする前に心境を尋ねた。

海軍神之池基地での味口(旧姓)正明上飛曹

昭和二十年八月十五日。本土最終決戦に備え、佐伯(旧姓・味口)正明元上飛曹(九一)=取材当時=は桜花搭乗員として茨城県鹿島の海軍神之池基地で訓練指導に当たっていた。寝起きしていたトンネルの外の広場で玉音放送を聞く。

――朕は時運の趨く所、堪へ難きを堪へ、忍ひ難きを忍ひ、以て万世の為に太平を開かむと欲す。

「雑音がひどくてよく聞き取れなかったけど、これで終わったのか。悲しいよりも何かふぬけになったような気がしました」

天草航空隊で教官を務めていた佐伯は十九年夏、訓練が終わり指揮所でくつろいでいると、隊長が一人一人順に教官を呼び出し始めた。戻ってきた仲間は緊張の面持ちで一言も発しない。佐伯の番が来た。

「いまから話すことは誰にも言うな。相談しないでここで決めろ」

 隊長が佐伯の眼を見つめ、続ける。

「帝国海軍では一発で主力艦や空母を撃沈できる新兵器を発明したが、その乗員、いわば勇士を募集している。お前は志願するか」

 そんな極秘兵器ができたのか。サイパンが陥落してもまだまだ日本の技術力は捨てた物でない。新兵器で攻撃するなら行くしかない。

 まだ神風特攻隊が編成されてない頃、まさか一式陸攻にぶら下がったロケット弾に乗り込み、敵艦に体当たりする人間爆弾とは思いもよらない。声を張って答えた。

「はい、行きます」「そうか、ヨシッ」

「はい、行きます」

「そうか、ヨシッ」

 十一月十七日、天草を離れ、茨城県神之池にある「七二一航空隊」に向かう。正門には「海軍神雷部隊」と大書されていた。まぎれもなく特攻隊基地であることに慄然とする。現在、基地周辺は広大な鹿島工業地帯に呑み込まれ、掩体壕以外、何の面影も残っていない。

投下直後の桜花

ちょうどその時、低空で降りてくる一式陸攻の腹に小判鮫のような緑色に光る魚雷に翼を付けたような飛行機を目撃する。あんなに小さい飛行機が飛べるのかと疑問に思った。

水上偵察機搭乗員から考案者の大田正一少尉から「大(マルダイ)」と名付けられた秘密兵器に乗り込む搭乗員となった。

 「桜花」は高度三千メートルからいったん投下されると、滑空し操縦はできるが、エンジンがないため修正ができず、敵艦が退避した場合、そのまま海に落下するだけである。

海軍飛行予科練習生(特別乙種一期)に入隊、軍艦の後甲板から飛び出していく水上偵察機を志望、その後、腕を買われ教官となった。訓練を重ねた熟練の技術を生かすこともなく死ぬむなしさに佐伯は落胆する。

 しかし、ただ死ぬための訓練は過酷だった。幾度も零戦での模擬滑空を体得し、桜花に乗り込み投下訓練を行う。

 二十年一月三日、分隊ごとに東京行軍に出かける。行軍といっても出撃間近でもあり、最後の東京見物であった。この時、初めて靖国神社に参拝し、宮城の二重橋を訪れた。

味口上飛曹と同期にあたる神之池基地の特乙一期生

「これが最後だぞ」天皇陛下は本当に実在するのか

「みな、よく見ておくように。これが最後だぞ」と分隊長が声をかける。二重橋の写真に両陛下のお写真が嵌め込まれている自宅の額縁と同じ光景を目の前にし、奇妙な気がした。佐伯にとり、天皇陛下は実際に存在しているかもわからない雲の上の存在であった。

 第一陣が九州に転進する一週間前、投下訓練に臨み、桜花に乗り込んだ。周回コースを一周した後、投下されることになっていたが、途中で突如、爆管の動作不良で切り離され、そのまま落下し、不時着する。三十六針を縫う重傷を負った。

 桜花搭乗員は順々に九州に転進、三月二十日、鹿児島鹿屋基地に待機する桜花攻撃隊に出撃命令が下り、十五機全機が未帰還となった。

四月になり、復帰を果たす際、分隊長から「これで海軍の航空兵力が一人増えたぞ」と言われ、身震いするほど感激する。しかし沖縄戦線よりも本土決戦ムードが高まり、その特攻要員として温存される。赤とんぼと呼ばれる九三式中間練習機を卒業したばかりの航空兵に操縦技術を教える「基幹員」として、神之池基地で訓練を続けていた。

自分は死ねないのに戦友はどんどん出撃する。

「いずれにしろ命はないのは変わりません。特攻というのは一人で何千人の乗員と航空機巻き添えにして天下の母艦と心中する。どれだけ死に様としていいかという思いでした」

十次にわたる攻撃で桜花七十五機のうち、五十六機五十六名が戦死。訓練中、佐伯は郷里の母親に遺髪と爪を送り、安堵したことを覚えている。

家族や故郷を守りたい 天皇陛下をお守りするのも同じ

神之池基地の桜花隊員
20歳前後の桜花隊員は若いというよりも幼ささえ残る
写真に映っている搭乗員のなかで誰が戦死したか、生き残ったか不明

「国のために死にたいというのは家族や故郷を守りたいということです。当時、天皇陛下をお守りするということも同じ意味だと考えていました」

 昭和二十一年元旦、昭和天皇は「新日本建設に関する詔書」を発せられた。いわゆる「人間宣言」である。

――一年の計は年頭にある。余は、余の信頼する国民が、余と心をひとつにして、みずから奮い、みずから励まし、もって以上の大業を成就することを、心より願うものである。

 昭和天皇はこの年から二十九年にかけ、全国を巡幸される。全行程三万三千キロ、行く先々で敗戦に打ちひしがれた国民を慰め、励まされた。

最初の行幸は二月十九日、川崎市の昭和電工だった。視察を終えた陛下は通り過ぎる予定だった工場正門で突如、足を止め、社員に話しかけられた。

「何年勤めているか」

 「5年ちょっとです」

 「生活は苦しくないか」

 「何とかやっております」

 「あっそう。頑張ってください」。これが天皇と一般国民が声を交わした最初だった。

「あっそう。頑張ってください」

二十四年五月二十七日、長崎に巡幸、原爆で妻を亡くし、自らも重傷を負った放射線研究の永井隆博士を長崎医大病院にお見舞いになった。永井博士は「長崎の鐘」や「この子を残して」などの著書でも知られる。

病室では本に書かれている当時十四歳の長男と九歳の長女が寄り添っていた。天皇は「どうです、ご病気は?。早く回復してください。あなたの書物は読みました」と励まされた。

「全身の表情から私は、いつも顔つき合わせてゐる隣人のやうな、親しいものを感じた」と永井は書き残す。

さらに「天皇陛下は巡礼ですね。洋服をおめしになっていても、大勢のおともがいても、お心はわらじばきの巡礼のお姿だと思いました」と知人に語った。永井博士はこの二年後に亡くなる。

九州巡幸では六月六日、宮崎市の県立盲学校をご訪問された。目が見えない子供たちに教室に天皇が入られたことをどうやって伝えるか。天皇以外の全員が裸足になって待つことになった。

「不便でしょうが、しっかり勉強して立派な人になってくださいね」

コツコツと靴音が響き、教師が「みなさんの教室に天皇陛下がお入りになりましたよ」と言うと、生徒の一人が「どこにいらっしゃいますか」と両手を差し出すと、天皇の手に触れた。天皇は体を生徒に寄せ、目を潤ませ、「不便でしょうが、しっかり勉強して立派な人になってくださいね」と声をかけられた。教室を出る際、全員で「さようなら」と叫ぶと、いったん外に出た天皇がもう一度戻ってきて、「さようなら」「さようなら」と幾度も繰り返された。

「遠くに感じられていた陛下が少しずつ身近になってきたような気がしました」

巡幸は二十九年の北海道まで続く。天皇は「戦前からこうして国民と直接話ができたらいいと考えていた」と側近に語られる。

 新聞やラジオで大きく取り上げられ、陛下の肉声やお姿に苦しみも悲しみもとにするまさに天皇の巡礼に国民は心を震わせた。

 いつでもまた呼び戻す意味の「解員」といわれ、故郷の今治に戻った佐伯は新制今治西高の定時制に通い始めていた。

「勉学が中途半端なまま予科練に入ったので、もう一度、いちからやり直したいと考えました」。

働きながら通学することに企業はいい顔をせず、働き口を転々とするが、なんとか四年で卒業する。卒業後はタオルなどに色を付ける繊維企業に就職した。

「上手に人生を生きていけるタイプではありませんので、苦労もしました。でもこの人生は若くして散って行った戦友が与えてくれたものと感謝しています」

 出撃と命令が下れば、生命がない状況をくぐり抜けたことで、「どんなことでも命までは取られない」という心境に至ったという。

 全国を巡幸されたが、米国の施政権下にあった激戦の地、沖縄だけはご訪問がかなわなかった。昭和四十七年返還後も過激派活動など警備上の問題があり、実現できないままであった。昭和六十二年、秋季国体開会式に御臨席のため、ついに沖縄巡幸が発表される。

昭和天皇は記者会見で「地方巡幸したときも(沖縄に)行くことができればよいと常に考えていました」と述べられた。しかし、突然のご病気で直前に中止になった。

 翌六十三年の年頭、御製が発表された。

思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを

 

ご無理なさらずに過ごしていただきたい

 佐伯も繊維企業で定年まで働いた。九十歳を過ぎたいま息子家族の近所で一人暮らしをしている

今上天皇の退位について、「昔はいろんなところに出かけていましたが、いまでは無理です。陛下も同じでしょう。ご無理なさらずに過ごしていただきたい」と話した。

 退位後の今上天皇について話を聞いてみた。「お体が続く限りは慰霊の旅はお続けになるのがいいのではないか。その方が陛下の心が穏やかになられるような気がいたします。亡くなった戦友も喜ぶし、遺族もうれしいに違いありません。どうぞお続けくださいと言いたいですね」といたわるように言った。

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