小笠原を日本に奪い返した官吏 小花作助㊤

 東京の南南東約1千㌔の小笠原諸島は父島や母島、硫黄島の島から成り立っている。この島々を外国人から取り戻した男こそが小花作助(1829~1901年)だ。

 江戸時代の1670年、八丈島経由で生還したみかん船の乗組員が幕府に報告したのが最初といわれている。その後、欧米の捕鯨船が相次いで入港し、英国が領有権を主張。1830年にはハワイからの入植者が移住し、寄港した米東インド艦隊のペリーが移民を首長に任命する。

このままでは小笠原が奪われる

 海防上の危機感に目覚めた幕府は1861年、軍艦「咸臨丸」で現地調査を命じる。調査後、小花以下6人が残った。小花の任務は居住している外国人に日本領であることを諭し、穏やかな形で世界に領有権を示すことだった。保護を約束した小花の真摯(しんし)な態度に外国人は日本の主張を認め、各国大使にも通告した。

父島にはいまも沈船が残されている

 八丈島からの移民も受け付けていたが、2年後、幕命で官民の日本人全員が引き揚げることになり、無主状態となる。これで、英国公使パークスは「領有権を放棄したことになる」として、再び領有権を主張し始める。

日本人引き揚げ 英国が領有権主張

 維新後、新政府に出仕していた小花は「このままでは小笠原が外国に奪われる」と小笠原再開拓を建白するが、国内に諸問題を抱える政府はまったく取り合わない。明治7(1874)年、ようやく外務など4省で小笠原を回収する協議原案が成立。原案は小花が起草したものだった。

父島にある小花作助の説明板

 翌年、「明治丸」に乗り込み小笠原に渡った小花は内務省の初代出張所長となる。日本は領有統治再開を各国に通告し、日本統治が確立した。外国人居住者は全員が日本に帰化し、「セーボレー」が「瀬堀」など、日本人名を持つことになった。

再び上陸 全外国人を帰化 もしいなければ…

当時、外国といえば大陸だった。新政府には小花のように小笠原諸島の重要性を認識できる視野を持つ者は少なく、小花の存在がなければ、小笠原はグアムやサイパンのようになっていたかもしれない。一官吏が日本の領土を守ったといえる。

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