初の国産旅客機 YS-11設計者・木村秀政 2

 

GHQから禁止された「空白の7年」

 連合国軍総司令部(GHQ)は航空日本の復活を恐れていた。昭和二十年十一月十八日、航空機の生産、研究、実験のすべての活動を禁止した。東大航空研究所も解散を命じられた。

 木村秀政は疎開先の長女にあてて次のような手紙をしたためた。

YSー11

 「苦心して作った飛行機も試験したり計算したりした書類も何もかも焼いてしまった後でした。本当に悲しくて涙がポロポロ出ました。しかし、もうじき元気がでるでしょうから、心配しないでくださいね」

 悲哀と父親の愛情がにじむ。体調に異変をきたし、五分おきに尿意をもよおした。

 母には「これからはタンポポの種子の研究をしようと思っている」と書き送った。飛ぶものだったら何でもよかった。

 木村は六千円あまりの退職金をもらい、「自然廃官」という形で航研を去った。東大に残る残らないの決め手は「戦争への協力の度合い」だった。

 戦後、木村は米国の航空関係者から、「軍用機を設計していないから平和を愛する設計者」といわれたことがある。

 木村は反論した。「ピントはずれの見解、大学の研究室で機会がなかっただけ。陸海軍の飛行機の性能を向上させるために夢中になって仕事をした。祖国が戦争に入るとき、阻止できなかった以上、身命をなげうって方針に従うのが国民として当然」

 大切にしていたカメラやレンズ、ゴルフ道具がメリケン粉やイモに変わった。“竹の子”生活が始まった。

木村秀政

               * * *

 「君なかなか、きれいな模型作るね」。昭和二十三年四月、学生だった寺川徹は東京・有楽町の模型店「エース」で声をかけられた。振り返ると、『模型飛行機読本』で見たことがある木村だった。

航空機を作れない 苦境のサムライ

 さらに、「いまに日本も飛行機を作れる時代が来るんだから、ヤケを起こさないで飛行機の勉強だけは続けなさい」といわれた。敗戦で航空技術者の望みが断たれ、悶々(もんもん)としていた寺川の夢は再びふくらんだ。週に一度、木村の自宅を訪れ、飛行機談議に胸をときめかせた。

 このころ、木村は一年半の浪人後、日本大学工学部で飛行機とは無関係の材料力学と振動工学を教えていた。

 二十四年、米国から送られてきた『ジェーン航空機年鑑』を手にした。そこには見慣れない新鋭機が並んでいた。一機一機の写真が目の前の実機のような感激を与えた。「いつかは飛行機が作れる。その時はまた思い切ってぶつかっていこう」。木村はその日を待った。

 二十七年四月二十八日、サンフランシスコ講和条約発効で、すべての航空禁止が解けた。寺川も東洋航空工業に入社、航空技術者の道を歩んだ。

 日本が模型飛行機を飛ばすのにも許可が必要だった「空白の七年」の間に、欧米はジェット機の時代を迎えていた。

 七年間、木村の同期の設計者も鬱々(うつうつ)とした時を過ごした。

 「零戦」の堀越二郎は、財閥解体で分散した三菱から吉見製作所の技術部長になり、鍋や釜を作っていた。その後、農機具や冷蔵庫に手を広げた。

 「飛燕」の土井武夫は、神戸の町工場でリヤカーや荷車を作っていたが、デフレ政策で失業。職業安定所に通い、失業手当で暮らす日々が続いた。時折、木村から米国の航空機の文献が届いたが、別世界のことのように感じた。

ボーイング、エアバスのような大型機も

 「空白の七年」がなければ日本の航空界はどうなっていただろうか。航空評論家の鍛冶壮さん一は「日本の国情に合って、アジア各国で使いやすいボーイング727のような中型機を生産していたのではないか」。木村の日大の教え子、宮入紀彦さんは「ボーイングやエアバスのような大型機も生産できている。ミスが許されない航空機産業は緻密で手先の器用な日本人に向いている」と熱っぽく語る。

               * * *

 昭和三十二年、日大で学生とともにN52、N58などの軽飛行機作りをしていた木村のもとに依頼が来た。通商産業省(現・経済産業省)が進めていた国産輸送機開発の技術委員長就任の要請だった。開発機は輸送機の頭文字の「Y」と設計の「S」、機体とエンジン番号の「1」をとって、「YS-11」と名付けられた。

 「国のプロジェクトで、もし失敗すると後に響いて、もう日本では飛行機ができなくなる。責任は重かったですね」。完成後の座談会で木村はこう語った。

 「戦時中、幾多の傑作機を設計した錚々(そうそう)たるメンバー」(木村)が集められた。「あんな大家を集めなくてもよかったかもしれませんが、大蔵省(現・財務省)に金を出させるためには大物を並べた方がよかった。みんな私の手に負えるような連中じゃない」

 「隼」の太田稔、「紫電改」の菊原静男、そして堀越と土井と木村。世間は映画『七人の侍』にかけて、「五人のサムライ」と呼んだ。

輸送機のY、設計のS、機体とエンジン番の1 YS-11

 みな一家言ある設計者である。事ある度に、激しい議論になった。それぞれが主任設計者だった戦前戦中には実現しない顔ぶれだったが、五人には合言葉があった。

 日本の空を日本の翼で-。「空白の七年」を経た思いが込められていた。

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