坂の上の雲その後 教育者でも英霊忘れず 登校を見て時計正す 秋山好古㊥
大正13(1924)年4月に北予中学校長(現愛媛県立松山北高)に就任した秋山好古(よしふる)(1859~1930年)は毎日、同じ道順で同じ時刻に通勤する。「校長の通ふ沿道には、その登校せる姿を見て時間を知り、我家の狂ひ易(やす)き時計の針を正すと云(い)はれるほど精確(せいかく)なものであった」と同校理事の井上要は書き残している。
好古の校長就任後、徐々に生徒の身だしなみも整い、目に見えて遅刻や欠席が減り、授業料もきちんと納められるようになった。しかし、好古が生徒を叱ることは一度もなく、怒った顔を見せたこともなかった。ただ登校時、校門前に立ち、あいさつをし、ニコニコと笑顔で校内や教室を見回り、時に落ちているゴミを拾い、生徒たちと経験や教訓を交えた世間話に興じた。「誠に親むべき好々爺(こうこうや)であった」という。校長室はせまく、夏暑く冬寒い部屋だったが、「暑い、寒い」とこぼすことなく、洋服のボタンひとつ外したこともなかった。
「生徒は軍人ではない」 教練に反対
全国の中学校や師範学校などに将校を派遣し、軍事教練を必修とする「陸軍現役将校学校配属令」が出される。しかし、好古は「生徒は軍人ではない」として、最小限の訓練にするように指示する。学校職員が好古の軍服姿の肖像を生徒に売ろうとしたこともあった。いつになく好古は大声で「俺は中学校の校長である。位階勲章など話す必要はない。こんなものを売って生徒にいらぬ金を使わせてはならぬ」と叱り飛ばしたこともあった。
不自由な足ひきづり 質素簡潔な生活
中学校は学びの場であるという信念の下、糖尿病で不自由な足を引きずり、寄付を集め、講堂を建設する。学習環境を整えることも教育者としての使命と考えていた。 住まいは昔の生家で、家事は親類の者が手伝いに来るだけの質素簡潔な生活を続ける。「(日露戦争の)未曽有の大勝利は国難に殉じた戦死者のたまものである。戦死者の遺族に対しお気の毒と存じ、日露戦争後はつとめて独身生活をしている」。教育者となった晩年も、英霊とともに生きていた。