天皇陛下へ 高速偵察機「彩雲」田中三也元飛曹長 生き残り海軍将兵の思い㊥

海軍の人間爆弾「桜花」、局地戦闘機「紫電改」、高速偵察機「彩雲」の搭乗員三名は大正末に生まれた。憧れの航空兵として死線をくぐり、特攻隊に選ばれる生と死が向き合った人生。昭和、平成と生き抜いた三人の目に映る天皇陛下のお姿はどう変わっていったのだろうか。平成から令和と時代が変わるとき、インタビューした。

 最新鋭偵察機「彩雲」搭乗員だった田中三也元飛曹長=取材当時(九四)=千葉県我孫子市在住=は特攻隊基地の鹿児島鹿屋でその日を迎えた。

20年6月、鹿屋基地での田中飛曹長

 沖縄方面の敵艦船索敵、偵察、戦果報告

 所属する第四偵察飛行隊は当初、源田実が四国の松山基地で結成した「三四三空」に所属していたが、米軍の南九州上陸に備え、戦闘機隊が後方の長崎大村基地に転進した後も鹿屋基地に残り、一七一空に編入される。任務は高高度からの沖縄方面の敵艦船索敵、偵察、戦果報告だった。

田中三也氏

 同じ年の一月二十四日、フィリピン・ツゲガラ基地で特攻隊金剛隊の編成が行われ、零戦三機と艦上爆撃機「彗星」一機による攻撃が発表され、偵察隊からも彗星の搭乗員を募った。十六歳で予科練(甲種五期)に入隊した田中も戦場に来たからには死ぬ覚悟はできている。偵察隊として特攻隊を誘導、体当たりも目撃した。いまさら自分だけが生き残るつもりもない。遅かれ早かれいずれは征く身だ。

「よーし、俺が行こう」

19年5月31日、トラック島春島に着陸した田中上飛曹(右)

 仲間の制止を振り切り、申し出た。

 わずか数時間後、単発復座「彗星」の後部座席に乗り込む。エンジンも好調、無線も好調。後は離陸するだけである。未練がましく家族の顔が浮かんできた。

 しかし待機していると、零戦一機のエンジン不調と無線が入り、出撃は明朝に延期との連絡が入る。一夜だけ命が延び、戦友たちと歌を歌って飲み明かす。

 翌朝、空襲警報の音で目覚めると、飛行場が猛烈な空爆を受けていた。あわてて駆け出すと、掩体壕に入れていたはずの彗星がない。敵機の攻撃を受け、腹に抱えていた特攻用二百五十キロ爆弾が誘爆し木っ端微塵に砕け散ったのだった。

19年6月、トラック島春島基地でバレーボール後に撮影。前列左から五人目が田中氏

「同乗させてくれ」と操縦席に 

 田中はその日、見送られる立場から見送る立場に変った。戦死するはずの命も心も行き場を失っていた。離陸直前、突如として零戦後部に乗り込むことを思い立ち、「同乗させてくれ」と操縦席に駆け上がった。しかし整備兵に引きずり降ろされ、「一人一機でたくさんだ。命を無駄にするな」と分隊長に厳しく叱責された。

 いったん出撃命令を受けたが、特攻隊員として宙ぶらりんのまま、鹿屋に引き揚げてきた。

 その後、不時着事故で頭蓋骨陥没の重傷を負い、仮宿舎で横たわったまま、玉音放送を聞く。

17年9月30日、トラック島住民と撮影。左端のふんどし姿が田中氏

天皇陛下のお声かと摩訶不思議なよう

「これが天皇陛下のお声かと摩訶不思議なようで、本当におられるのかと思ったのを覚えています。悔しさもあったが、終わったという安堵の気持ちの方が大きかった。故郷に帰ることができるうれしさの半面、日本はどうなるのかという不安もありました」

石川県に復員した田中は事故の後遺症が残り、たびたび職を変える。おがくずにまみれ、製材所に勤め、上京後は隅田川を行き来する浚渫船の乗組員となり、泥にまみれた。

「あの時代、気楽な者など一人もいなかった。食べ物も何もなく先も見えない。だれもが生きていくことに必死でした。たぶん陛下も同じようなお気持ちだったのではないでしょうか」

 戦後、田中は民間企業勤務後、昭和三十年に海上自衛隊入隊、対潜哨戒部隊などに所属、二等海佐で定年退官した。その後も民間企業で航空測量に従事した。

海軍時代の飛行時間一千九百五十時間、海自時代は二千七百時間、民間企業では八百五十時間、計五千五百時間、その後は航空史研究家となった。最後の最後まで空の男であり続ける。

「昭和、平成と生きてきましたが、仲間の戦いの跡残すように研究をしたい。それが二度と戦争をしてはならないことにつながるのではないでしょうか」

 天皇陛下の靖国参拝 「ぜひご参拝していただきたい」

 その意味でも天皇陛下の慰霊訪問は続けていただきたいと言う。最後に靖国神社ご参拝について尋ねた。田中は「中国や韓国があって難しいとは思うが、ぜひご参拝していただきたい」と即答した。

大正末に生まれた男たちが物心ついた昭和初めにはすでに戦争の雰囲気が漂い、航空兵は憧れの的だった。大戦末期、次々と出撃したまま戦友は戻ってこない。遺骨を拾うこともできず、海に消えてしまった。亡くなった戦友たちが残したのは何気ない会話や出撃風景だけで、何の形も残っていない。ペリリュー島に陛下がご訪問されたことで激烈な戦闘を初めて知った国民もいる。慰霊とは忘れないことである。老いた元搭乗員は心の底から願っている。

田中氏も搭乗していたラバウル基地を出撃する二式艦偵

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です