世界初の人工がん発生に成功 山極勝三郎(上)
昭和41(1966)年10月、羽田空港。スウェーデンからの日航機で一人の老紳士が降り立った。元ノーベル賞選考委員で王立カロリンスカ研究所のフォルケ・ヘンシェン名誉教授は、待ち構えた新聞記者に対しこう言った。
「世界のがん研究史上における博士の偉大な業績は、誰ひとりとして異存もなく、世界的に認められている。それに対して、半世紀前とはいえ、ノーベル賞が授けられなかったことは、まことに残念で、日本のがん科学者にも申しわけない」
幻のノーベル賞受賞者といわれる山極勝三郎(やまぎわかつさぶろう)(1863~1930年)は下級武士の三男として、長野県上田市に生まれた。父の山本順兵衛政策(じゅんべえまさつね)は名字帯刀は許されていたが、禄高はわずかで困窮する生活に明治維新が追い打ちをかける。武士としての家禄を失った父は寺子屋を経営し、子供たちを養っていたが、小学校が設置されると、子供たちの数も目に見えて減ってきた。
世界に名を知られるくらいになりたい
勝三郎は上田第一番小学校(松平学校)に入学、この時に使用されていた教科書「輿地誌略(よちしりゃく)」が人生を大きく左右する。世界の歴史や地理を初めて知り、「世界に名を知られるくらいになりたい」と考えるようになった。
成績優秀な勝三郎のため、苦しい家計をやりくりし、どうにか設立されたばかりの上田中学校に入学するが、さらなる進学はとても望めない。そこで持ち上がったのが開業医である山極家へのむこ養子だった。
当時、医者は士族よりも身分が低いとみられ、勝三郎も役人か軍人を希望していた。「医術は人の命を助ける尊く立派な仕事だ」と周囲は説得するが、釈然としない顔の勝三郎に「養子に入れば何も心配しないで大学に行けるぞ。お前がその気になれば、外国にも留学できるぞ」。この言葉がすでに世界を意識していた勝三郎を決断させる。
養子になると同時に、上京しドイツ語学校に入学、さらに東京大学医学部に入学。世界初の人工がんの発生に成功するまでの長き医学の道を歩み始めることになる。
Thanks for your blog, nice to read. Do not stop.