大久保利通の「而盡」削る豪胆さ 小花作助㊦
小笠原・父島中心部から5㌔ほどの小笠原神社参道わきに「開拓小笠原島之碑」がある。
当時の内務卿、大久保利通が撰文、日下部東作が書を、石工は広群鶴で、明治10年に建立された。風雨にさらされ読みにくい箇所はあるが、明らかに削り取られた2文字がわかる。
蜿蜿起伏至於此●●乃我南門也
大久保の撰文は「四方を海で取り囲まれており、伊豆から南東方向に日本領土である島々が星を散りばめたように連なっている。小笠原諸島もその一つであり、甲斐から伊豆への山脈が延々と起伏しながら、ここまできて終わっている。わが国の南側の門といえよう」である。
現在の碑はこうなっている。
―甲斐伊豆之山脈蜿蜿起伏至於此●●乃我南門也
小笠原初代出張所長、小花作助(1829~1901年)は地方官吏の身でありながら、建立式直前に「而盡」の2文字を独断で削らせたのだった。
内務卿直々の撰文を独断で削り取ることは職を失うことは無論、身に危険が及ぶことさえある時代だ。
日本は小笠原よりも南に進出すべきだ
なぜ小花は命を懸けてまで「而盡」に憤ったのだろうか。「盡」は「尽」の旧字で「この地で日本の領土が終わる」ことを意味する。小花は「日本は小笠原よりも南に進出すべきだ」という信念で石工に命じたといわれる。
維新後、爆発的に増加を続ける人口問題の解決策として、南洋に活路を見いだそうとする南進論が出てきたのはその後で、「冒険ダン吉になった男」の主人公である森小弁(こべん)も南進論に共鳴し、南洋に向け出航した。
日清戦争以後、国策は大陸に目を向けた北進論となったため、南進論は民間主導で細々と継続しているにすぎなかった。
だが、その後の終戦までの歴史をみると、小花の先見性の高さに驚かされるとともに、官吏が大久保の撰文を削るという豪胆さは目を見張るものがある。
外国人から小笠原を取り戻すだけでなく、視線はさらに南洋を向いていた小花作助。気宇壮大な明治の男の気骨が削られた2文字に残されている。