忘れられた玉砕のペリリュー島 パラオ 天皇皇后両陛下慰霊
日本軍約一万名が玉砕、米軍の死傷率も史上最も高い約六十パーセントに上り、語られることが少ないため「忘れられた戦場」と呼ばれるパラオ諸島ペリリュー島。しかし戦後七十年の平成二十七(2015)年四月九日、天皇皇后両陛下が慰霊されたことで注目を集めた。
二〇一七年六月十八日、コロール島からボートで世界遺産の美しい島々を縫うように一時間で、ペリリュー島に到着。焼けつくような日差しの下、仲間とともに慰霊を行った。
東洋一の飛行場争奪戦 「3日もあれば占領できる」
昭和十九年九月、サイパン、テニアン、グアムを攻略した米軍の次の目標はペリリュー島飛行場だった。フィリピン総攻撃態勢を敷く米軍にとって、放置すれば日本軍航空機がフィリピン攻略の邪魔となり、占領すれば飛行基地として使用できる。ペリリュー島の戦いは東洋一といわれた飛行場の争奪戦であった。
昭和十九年九月十五日早朝、南北九キロ東西三キロの小島にガダルカナル上陸以来、栄光と精強をうたわれたウィリアム・M・ルパータス少将率いる米海兵隊の第一海兵師団二万八千名が上陸を開始。ルパータス少将は「こんな小さな島は三日間もあれば占領できる」と豪語し、二個師団約四万名の海兵、陸軍部隊をつぎ込んだ。
中川州男大佐率いる日本軍 洞窟を生かし島全土を要塞化
迎え撃つのは陸軍歩兵第二連隊(連隊長・中川州男大佐、水戸)、第十五連隊(高崎)を中心とする守備隊九千八百三十八名。中川大佐は南北九キロ、東西三キロの隆起珊瑚礁の島の至る所にある自然の洞窟を縦横無尽に拡張して要塞化していた。
上陸前、三日間にわたるすさまじい砲爆撃にさらされ、ジャングルは消え、瓦礫の山となった。九月十五日早朝、日本軍が西浜と呼んだ南部海岸から上陸を始めた米軍に向け、一斉に砲射撃を浴びせる。
守備隊はいわゆるバンザイ攻撃を行わず、一発一殺、一人一殺を貫いた。この守備隊の敢闘に栄光の第一海兵師団は敗北、特に上陸第一陣を担った第一海兵連隊は死傷率五十パーセントを上回る惨敗、後方基地に撤退した。
それでも玉砕は必至とみていた中川大佐は事前に内地にこう連絡していた。
壁に無数の弾痕、天井に穴 米軍の猛攻語る海軍航空司令部
――通信断絶の顧慮大となるをもって最後の電報は左記の如く致したく承知相成(あいなり)たし
一 軍旗を完全に処し奉(たてまつ)れり
二 機秘密書類は異狀なく処理せり
右の場合、サクラを連送するにつき報告相成たし
今回、ペリリュー島北部の北波止場から上陸し、海軍航空司令部後に向かった。現在はジャングルに覆われているが、当時は滑走路を一望できた。頑丈なコンクリート造りで、地下には待避壕もある。しかし天井には無残な穴が開き、壁には無数の銃痕が残り、米軍の砲爆撃の苛烈さを物語っている。
当時、零戦や一式陸攻など二百機が配備されていた長さ一千二百メートル幅八十メートルの二本の滑走路も現存し、現在も使用可能だ。
滑走路脇には天野国臣大尉率いる戦車隊の九五式軽戦車も残る。天野戦車隊は敵の砲撃に遭いながらも速度を落とさず前進、戦車が動かなくなると、ハッチを開け、機銃で反撃。しかし、九月二十一日頃までに壊滅、百二十八名全員が玉砕した。
米軍の水陸両用戦車もあり、九五式軽戦車の二倍近い大きさで両軍の装備の違いがよくわかる。
いまも残る千人壕 砲爆撃にさらされる不安
北部には山全体に四階建てビルに相当する壕を巡らせた「千人壕」と呼ばれる水戸山陣地も当時のまま保存されている。中に入ると、広い部屋も確保され、野戦病院として使用された壕もある。陣地を守っていたのは引野通広少佐率いる独立歩兵第三四六大隊五百五十六名と海軍軍属。蒸し暑い壕にこもり、砲爆撃にさらされる不安とその後に訪れる死しかない敵との決戦―。壕の中で何を語り合っていたのだろうか。
サクラ、サクラ、サクラ 我が集団の健闘を祈る
各地で敢闘するも、米艦隊に包囲され、補給路を断たれた守備隊は弾薬も食料も途絶え、十一月二十四日、中川大佐らが自決、電文が打たれた。
ーーサクラ、サクラ、サクラ 我が集団の健闘を祈る
十一月二十七日、米軍が全島を占領し戦闘が終結する。しかし戦死二千三百三十六名、戦傷者八千名以上を出した米軍に甚大な損害を与えた。三日間で終わるはずの戦いは上陸後、七十三日間に及んだ。
C・W・ニミッツ そして玉砕したかを伝えられよ
守備隊の抗戦は米軍の予想をはるかに上回る敢闘であり、ペリリュー島神社に建立された碑には米太平洋方面艦隊司令長官C・W・ニミッツの言葉も刻まれている。
諸国から訪れる旅人たちよ
この島を守るために日本軍人が
いかに勇敢な愛国心をもって戦い
そして玉砕したかを伝えられよ
米太平洋艦隊司令長官
C.W. ニミッツ
北部の「みたま」と南部の「西太平洋戦没者の碑」に慰霊に訪れた。天皇皇后両陛下も慰霊された「西太平洋戦没者の碑」につけられた目は靖国神社の方角を向いている。
米軍上陸直前の昭和十九年七月七日、パラオの国民学校で訓導(小学校教諭)をしていた仲西貞夫に、召集令状が届いた。翌日、仲西は日本にいる妻、貞子に手紙を出した。
身体に気をつけて朗かにくらせ
――情勢次第に悪化しパラオ島防護の為 昭和十九年七月七日名誉の召集令状を受く
男子の本懐之に過ぐるものなし、又家門の誉なり
勇躍入隊 大君の醜の御楯として米英軍を撃滅せん
戦死の報ありとても決して取り乱さざること
魂は靖國の神として永久に皇國を守る
会いたくば靖國神社へ来れ
お前の身のことについては父とよく相談せよ
軍人の妻としての体面を保て
父母に孝養を頼む
身体に気をつけて朗かにくらせ
ながらくのお世話ありがたう 深謝す
白墨を銃剣に持ち替えた仲西先生は陸軍軍曹として、翌年七月十九日、戦病死する。三十二歳だった。
目は靖国神社の方角
美しい蒼海と濃緑のペリリュー島で戦死した一万名の将兵はふるさとの両親や幼い弟、妹、嫁いでいった姉、愛しい妻を守るために亡くなった。
世界には私たち日本人が忘れてはならない戦場がいまも遺されている。
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