初の国産旅客機 YS-11設計者 木村秀政 ④
夢をのせ「あすも翔ぶ」
航空日本復活の威信をかけて設計された「YS-11」。機体は故障もなく操縦もしやすい。しかし、商業的には失敗した。「技術者の良心」だけでは売れなかった。
航空機産業は世界中で激しい売り込み工作が展開されていた。政商へのリベート、バックマージン、利益を無視したダンピング…。国策会社が、押していくには基盤が脆弱(ぜいじやく)すぎた。
時代遅れになったプロペラ機
さらに、「売れる飛行機作り」であるはずが、いつしか「初の国産旅客機完成」が目的に変わり、ユーザーを度外視したプロジェクトが進められていた。
航空会社にセールスに行ったとき、「マニュアルをいただけますか」と聞かれ、初めてマニュアルがないことに気付いた。十万点もの部品がある航空機のマニュアルは一朝一夕で、できるものではない。本来なら設計と並行して作業に入らなければいけなかった。
戦後、木村秀政には米軍にマニュアルがあることを知り愕然(がくぜん)とした記憶があった。「これさえあれば、『名人芸よ、さらば』である。ある基準以上の仕事ができるから、操縦士にしても整備士にしてもどんどん養成できる。わが国の場合、何と個人の工夫や名人芸が尊重されていたことだろう。敗戦の原因はこういうものの考え方にあると思った」。にもかかわらずYSのマニュアルはなかった。
時代が先に進みすぎたこともあった。YSが初就航したのは昭和四十年。相前後してボーイング727などが登場、「プロペラ機は時代遅れ」の風潮が出ていた。
すでに超音速旅客機コンコルドの開発も行われていた。英仏が十四年間かけて開発、定期就航したときには、すでにジャンボ機や低騒音機の時代でコンコルドの出番はなかった。
木村はコンコルドを新選組に例えた。「異常なまでの開拓精神であり、情熱を燃やして取り組む関係者の意気込みはまことにさわやかで心地よい。真剣であるだけに、いっそう悲劇的である」。木村ら「五人のサムライ」のことのようにも読める。
82機製造、76機輸出 フィリピンなどで定期運行
YSは時代の波に押し流されたが、生産中止になる四十八年までに百八十二機が製造、七十六機が輸出された。定期路線では日本、フィリピン、トリニダードトバゴなどで運航された。当初の耐用時間三万時間を超え、六万時間に近いものもあった。
大きな事故は四十一年の松山空港沖での水没事故と四十六年の函館空港で土手に突っ込んだ事故の二つで、航空機自体が原因になったものはない。YSは木村が理想とした「安定した飛行機」であることを日々、証明し続けている。
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昭和四十七年、木村は次の国産航空機開発の委員長に就任したが、二転三転し、結局、米ボーイング社との「共同開発」に決まった。実際には下請けにすぎなかった。「航空機は基本構想がすべて、自前で企画、設計しないと技術者は育たない」と日大教授の柚原直弘は無念そうにいう。
時折、自宅で「次の飛行機も作りたかったなあ」とつぶやく以外、木村は頓挫した次期国産旅客機にも言及しなくなった。だが、タンポポの種子の研究さえしようとした「飛ぶ」ことへの熱意は衰えなかった。
「技術的に極めて高く、やりがいがあって、しかも夢がある。学生のチームワークを養うには最適」
木村は先祖返りしたように、学生たちと人力飛行機作りに熱中した。初飛行はわずか十五メートルの記録だったが、飛んだことがなによりもうれしかった。翌日の新聞には『木村教授は子どものようにはしゃぎまわった』と書かれた。
「『航空工学』ではなく、日大は『航空機工学』。理論は東大などにおまかせして、できた理論を使って、使用目的にあった使いやすい飛行機をいかに作るかでした」と武石明。大学は「木村飛行機塾」であった。
木村飛行機塾 鳥人間コンテスト審査員も
五十二年から始まったテレビ番組「鳥人間コンテスト」の審査委員長も務めた。当初は琵琶湖に派手に落ちるのを狙ったお笑い番組の予定だった。
しかし、木村の参加で一変、設計図を提出させ、事前審査を行うことになった。スタッフが「これは形がおもしろいから」といっても、「これでは飛べない、危険だ。けがをする」と許可を出さなかった。
実況中継していたアナウンサーの志生野温夫は懐かしげにいった。「毎回、飛んだ、飛んだといって本当に楽しんでいましたよ。半面、安全性を無視したような飛行機には手厳しかった。飛ぶことに妥協を許さなかったですね」
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スペシャリストの堀越 ゼネラリストの木村
航空日本は二人の偉大な技術者を生んだ。一人はスペシャリストであり続けようとした。『零戦を設計した前後の十年が一番輝いていた』と木村が堀越二郎の追悼文に寄せた。裏返せば、航空解禁後も天才設計者としては不遇だった。航空機産業は一人の設計者の思想で練り上げられるほど、単純な作業ではなくなっていた。
もう一人は「飛ぶ」のすべてを知るゼネラリストになろうとした。模型飛行機から航研機、YS、人力飛行機…。「わたしにとって飛ぶことは魚にとっての水」。木村は日本で最後の航空ゼネラリストだった。そして六十一年、八十二歳で亡くなるまで変わらない「ヒコーキ少年」だった。
平成十八年までに日本の定期路線で運航している「YS-11」も順次、退役した。木村の好きな言葉は「あすも翔ぶ」だった。(敬称略)