第六潜水艇 佐久間勉艇長の遺言㊦ 夏目漱石、与謝野晶子も讃辞

 

第六潜水艇の艇長、佐久間勉大尉(1879~1910年)が息絶え絶えになりながらも残した「佐久間艇長の遺言」は殉職した5日後、明治43年4月20日の新聞各紙で公表される。

「死に至るまで職務忠實なる行動に、胸迫り涙さへ出でざりし」

佐久間艇長の遺書

「佐久間艇長は司令塔に在りて儼然指揮せる儘、生けるが如く永眠し、舵手はハンドルを握りし儘瞑目し(中略)更に取亂したる態度無かりしは、軍人の本分とは云へ、死に至るまで職務忠實なる行動に、胸迫り涙さへ出でざりし」と讃辞する。

さらに「斯る苦しさを忍びて、死に至る迄毫も秩序を亂さざりしは、流石に帝國の軍人にして、誠に國民の龜鑑なりと稱へらる」と佐久間と13名の部下の毅然たる最期が感動を呼び起こした。

「第六潜水艇」の事故をわび、部下の遺族の救済を依頼する遺書を読んだ国民は深い感銘を受けた。その日の夕刻、鈴なりの民衆が見送る中、「哀しみの極み」を演奏する軍楽隊を先頭にした殉職した名の葬列は広島・呉の呉鎮守府から海軍墓地までの約3㌔の道のりをゆっくりと進む。会葬者は2万人にも上った。

 遺言は写真でも公開され、事故原因報告など沈着冷静な佐久間の文字が徐々に乱れるところも読む者の胸を打つ。最後の「十二時三十分」の三の線が4本あり、死の苦しみと闘いながらも書き残そうとする思いが伝わる。

此ヒロイックなる文字 夏目漱石も讃辞

 佐久間の恩師、福井県立小浜中の成田鋼太郎も新聞を読み、驚嘆する。「これを読みて、予は感極まりて泣けり。今泣くものは、その死を悲しめるにあらざるなり。その最後の立派なりしに泣けるなり」

夏目漱石
与謝野晶子与謝野晶子

 さらに、夏目漱石も「人から、佐久間艇長の遺書の濡れたのをそのまま写真版にしたのを貰(もら)って、床の上でその名文を読みかえして見て、『文藝とヒロイック』という一篇が書きたくなった」として、評論を書いた。その中で「自然主義といふ言葉とヒロイックと云ふ文字は仙臺平の袴と唐棧の前掛の様に懸け離れたものである。(中略)佐久間艇長の遺書を読んで、此ヒロイックなる文字の、我等と時を同じくする日本の軍人によって、機械的の社会の中に赫として一時に燃焼せられたるを喜ぶもの

である」と述べた。

 与謝野晶子も佐久間を追悼する歌を詠む。

 「海底の 水の明りにしたためし 永き別れの ますら男の文」

 だが、佐久間の沈勇ぶりにはまだ続きがある。初めての国産潜水艇で操舵が難しい第六潜水艇の訓練にあたり、この年の年頭、「公遺言」とは別に「私遺言」もしたためていた。

亡妻のものと同一の棺に入れ混葬さすべし 妻、長女出産後に死亡

 父親と弟、長女に宛てた遺言では父親の養育や遺(のこ)される長女の今後、遺産相続などが詳細につづられる。

 最後は「我れ死せば遺骨は郷里に於て、亡妻のものと同一の棺に入れ混葬さすべし」。前年、長女を産んだ直後に死亡した妻、次子と同じ墓に入れてほしいと要望している。わずか1年の結婚生活だったが、深い愛が垣間見え、人間佐久間の品格がにじむ。

  

佐久間勉の生涯 

明治十二年九月十三日北前川の佐久間家次男として生まれた。明治三十一年十二月、広島県江田島海軍兵学校入学、明治四十二年十二月第六潜水艇の艇長拝命。明治四十三年四月十五日、半潜航訓練中不測の事故により沈没、三十歳六カ月にて殉職。

佐久間記念交流会館(福井県若狭町)

佐久間記念交流会館(福井県若狭町) 佐久間艇長に関連した写真などが展示されている

第六潜水艇殉難と佐久間精神の継承、第六潜水艇の遭難・殉難と艇長の遺書「職分、沈勇」、艇長佐久間勉の生涯についてなどが展示されている。

敷地内には佐久間艇長夫妻の墓もある
記念館裏の六号神社 
敷地内の佐久間艇長の生碑碑
館内には通信簿や手紙なども展示されている

第六潜水艇殉難慰霊碑(呉市西三津田町の鯛之宮神社)

 広島県呉市西三津田町の鯛乃宮神社では佐久間艇長らが殉職した4月15日に毎年、追悼式を行っている。

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