第六潜水艇 佐久間勉大尉の遺言 ㊤
明治43(1910)年4月15日午前9時38分、瀬戸内の山口県新湊沖。「ベント開け」の佐久間勉艇長の号令とともに、前日に続き海軍「第六潜水艇」は艇を水中に沈め、通風筒の先を水面に出して航行する半潜航訓練に入った。
14人全員、配置に就いたまま殉職
乗り組みは艇長以下14人。当時、海軍は9隻の潜水艇を保有していたが、第六艇は初めての国産で操縦が難しく、いずれも経験豊富な乗組員が選ばれていた。
「メーンタンク注水」「全速前進」。順調に訓練を続ける。10時45分、突如、艇首が下に傾く。「浮き舵(かじ)いっぱい」。だが、艇はさらに沈み始める。「バルブ閉鎖」「落ち着け」と佐久間はいつも通りの穏やかな声で下令する。
手動で閉鎖するが、容赦なく海水が浸入。「閉鎖完了」「よし排水急げ」。しかし、このときにはかなりの海水が艇後部に入り込み、配電盤がショート、艇内は暗闇となり、焼けたガスが充満し始める。
沈降は止まらず、深度計が10㌳(約18㍍)を指していた。タンクからガソリンガスも噴出、作業の声が途絶えるようになる。
佐久間はハッチ蓋の留め金を外す。引き揚げ作業の際、壊さず外から開けられるように、艇と作業員に配慮したのだった。
十四勇士整然トシテ各其配置死守
司令塔に戻り、薄明かりを頼りに手帳に鉛筆でメモを始める。これが「佐久間艇長の遺書」である。午後2時ごろ、相次いで死亡。武人として国を守る干城を志し、海軍兵学校に入学した佐久間は大尉として生涯を閉じる。
遭難2日後の17日。ようやく第六艇が引き揚げられる。ハッチは簡単に開き、排水と換気を行った後、検証が始まった。潜水艇事故では、避難しようとして、ハッチ付近で死亡する例が多い。だが14人の遺体は見あたらない。
第一潜水艇隊司令の吉川安平中佐が真っ先に艇内に入る。艇内の様子に心を揺さぶられる。14人全員が配置に就いたまま、絶命していたのだ。
「十四勇士整然トシテ各其配置死守」と吉川は記す。まさに14人は職に殉じたのだった。
14名の殉職者
佐久間勉大尉
浴山馬槌一等兵曹
遠藤徳太郎一等水兵
岡田権次一等機関兵曹
門田勘一上等兵曹
河野勘一三等機関兵曹
鈴木新六上等機関兵曹
堤重太郎二等兵曹
長谷川芳太郎中尉
原山政太郎機関中尉
福原光太郎三等機関兵曹
山本八十吉二等機関兵曹
吉原卓治三等兵曹
檜皮徳之亟二等機関兵曹