回天の島 人間魚雷の訓練基地 大津島 海中特攻、145名戦死
山口県周南市の徳山港から船で45分の大津島。何もない辺鄙な島に年間1万5000人が訪れる。島には先の大戦中、海軍が投入した人間魚雷「回天」の訓練基地が残っている。港から5分ほど、回天を運んだトロッコレール跡があるトンネルを抜けると、いきなりタイムスリップする。白波に洗われるコンクリートの残骸。どんな思いで回天を押しただろうか。戦死者は17歳から28歳の若者だった。回天記念館に掲げられた凜とした若者の顔写真、遺書が訪れた人に問いかける。私たちが守った日本は、家族は―。
若者が残した遺書が問いかける 私たちが守った国はいま……
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昭和18(1943)年夏、戦況が悪化する中、2人の青年士官が体当たりによる特攻しかないと人間魚雷を構想。「天を回らし、戦局を逆転させる」という願いから「回天」と名付けられた。
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「右特殊兵器は挺身(ていしん)肉弾一撃必殺を期するものにしてその性質上特に危険を伴うもの」。募集要項にはそれだけが書かれ、選抜基準には「後顧の憂いなき者」という項目もあり、ある種の特攻兵器は確かだった。だが応募が殺到、1375人が訓練に臨む。
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着任時から死を意識しており、多くの日記や手紙、遺書が残されている。整備員含め145人が戦死。出撃前、兵庫県に帰郷した水知(みずち)創一大尉の手紙だ。
身はたとへくちるとも、永遠に母上を御守りします 水知創一大尉
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「車中で母上から戴いたものを拝見しました。私の様な不孝者をあんなに迄、想って下さり、本当に有難う御座います。私こそ身はたとへくちるとも、永遠に母上を御守りします。私に万一の事がありましても、決して髪等切らず、笑っていて下さい。昭子始め弟妹が可愛そうです。まだまだ慎二も居ることだし、もっともっと気を強くもって呑気に御暮らし下さい。私の母上への御願いは、朗らかに呑気に暮らして戴きたいことです。御弁当はとてもおいしくあれならもっと沢山作ってもらえば良かったと思いました」。昭和20年7月16日、マリアナ東方海域で戦死した。
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潜水艦で出撃し現場海域で回天に乗り込む。暗く狭い艇内で刻々と迫る瞬間。殴り書きのようなものもある。「泣クナトハ云ヒマセン 嘆カレル心中ハ充分ニ想像出来マス 存分ニ泣イテヤッテ下サイ」。突入2時間前の工藤義彦中尉は鉛筆でわら半紙に終わりを告げる。「可愛イ人形ト写真ト一緒ニユキマス」。姉妹か、恋人からもらった人形だろか。
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可愛イ人形ト写真ト一緒ニユキマス
帰りの船から見る蒼海に浮かぶ濃緑の島々。瀬戸内の晴れ晴れしい空気が余計にせつなく、行きとはまるで違う光景に感じられる。
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